新しい環境に入ると、怖くてどうしていいのかわからなくなる……。

転職先でもメキメキ実力を発揮して瞬く間に周囲の信頼を得てしまう人もいれば、物怖じして萎縮してしまう人もいます。

でも、精神科医の名越康文(なこし・やすふみ)先生によると、「大成するのは、案外新しい環境に馴染みにくい人」なのだそう。どういうことなのでしょうか?

前回に引き続き、「あたりまえ」をテーマに教えていただきました。

いつからコーヒーが好きになったか?

僕自身の体験で言うと、つい先日、ある科学の記事を読んでいて、ハッ!と自分の「あたりまえ」が揺らいだことがあったんです。

僕、コーヒーが大好きなんですね。でも、いつからコーヒーを美味しいと思うようになったのか、よく覚えていないんです。子供の頃に飲んでいたのはコーヒー牛乳です。あれはミルクもお砂糖もたっぷり入ってるし、たぶん最初から甘くて美味しいと思った。

でも高校の時、ちょっと大人ぶってブラックコーヒーを飲んでみた時、初めの一杯は「なんちゅうひどい苦さや!」って感想を持ったわけですよ。その時のことは僕、よく覚えてんねん。わりと子供の頃とか思春期の記憶が生々しく残っているタイプなんです。

ちなみにハタチになって、たばこを初めて吸った時のことも覚えてる。その時も「うへ~っ、えらい苦いもんやなあ」って感じ。それでも2年間くらい、継続的にラークマイルドを吸ってたんやけど、結局は体に合わないと判断して吸わなくなった。

ところがコーヒーはいつしか大好きになって、いまは一日に2杯は飲むんです。それくらいのコーヒー党なんやけど、いつコーヒーを最初に美味しいと思ったか? これがね、まったく定かではない。

ただ、そこに補助線を引けそうな体験は2度ほどあったんですよ。一つは、納豆。僕は関西の生まれですから、子供の頃、納豆を食べる習慣がなかった。それが中3の時に見たコントで覆された。当時「コント55号」というお笑いコンビを萩本欽一さんと組んでいた坂上二郎さんが、コントの中でものすごく美味しそうに納豆を食べていたんです。僕はコント55号の大ファンやったから、すっかり影響を受けて、その日から「納豆修行」を始めたんですね。

最初はもうね、正直「豆が腐ってる」としか感覚できない(笑)。ところが月曜日から我慢して食べだして、その週の土曜日の夜に、突然「なんて美味しいんや!」と本気で思えたんです。なぜだか、急に転化が起こった。それまでの苦痛から。

あともう一つは、パクチーですね。昔、タイに旅行した時、毎回の食事にパクチーが何にでも入っていて、もうね、あの味がノイローゼになるくらいつらかったんです。もう二度とパクチーは食べたくない、とまで思った。

ところがね、日本に帰って1ヶ月ほど経った時に、たまたま友人に誘われてタイ料理を食べに行ったんですよ。普通に考えたら断りそうなもんやのに、なぜか僕はのこのこ出かけていったんです。そうしたら、パクチーがのっている炒め物が当然出てきますわな。でも、それを口にしてみたら、信じられないほどに美味しかったわけ!

苦痛こそが快感の生みの親

どうやら人間っていうのは、苦痛をともなうほどのものを食べ続けると、ある段階で転化が起こる。感覚の転換が起こる。それは体験として、なんとなく了解していたけど、その理由まで突き詰めて考えたことはなかったんですね。

ところがね、冒頭で書いたその科学の記事に「人間は苦痛をやわらげるために、脳の中で快感物質を出すようになる」って書いてあったの。「うわっ、これ、面白いな!」と思って。

つまり僕たちは、実はまずいものこそ美味いって、脳で味わってるというわけです。もちろん何でも最終的には脳で味わってるわけやけど、味そのものを感覚しているというよりは、味によって快感物質が出て、苦手だったはずのものを美味しいと感じるという、複雑な過程を取るものらしい。

なるほど、そうか!コーヒーは実は脳の快楽だったか!と。要はエンドルフィン(多幸感をもたらす神経伝達物質。脳内麻薬とも言われる)的なものが生成されるから、つい苦いコーヒーに手を出してしまうのか!って。

あくまで仮説ですけど、これは一理あるなと。

コーヒーって美味しい。大好き。いやしかし、どうやら厳密には違う。もしかしたら脳の中の快楽物質が、コーヒーを美味しくしているのかもしれない。

つまり自分にとっての「あたりまえ」には、実は自分が思っていたよりもっと複雑な意味があった、と。これ以降、少し世界の見え方が変わりましたね。前は漠然と「やっぱり苦労した方が人生には成果がある」と感じていたものが、苦痛こそが快感の生みの親になり得るということをはっきり知ったわけですからね。「あたりまえ」をこじ開けてみると、奥には自分の知らない世界が広がっていた――という僕なりの一例ですね。

「保留の感覚」を持ち続ける

こういう小さいレベルで言うと、「あたりまえ」が覆されるというのは、ちょくちょく起こることだと思います。いろんな「あたりまえ」と思っていたことが、実は違っていたっていうことは、日常生活の中に探してみるといっぱいあるんですよ。

また自分の例を出すと、僕はいま趣味で作曲しているんですね。それで曲を作る時は、頭の中で旋律(メロディ)が鳴ってるんですよ。これが僕の中の「あたりまえ」。ところが僕のお弟子さんで、前から音楽をやっているセミプロみたいな人がいるわけ。ある日、その人に訊かれたんです。「いったい、どうやって作曲してるんですか? だって先生、楽器弾けませんよね」って。

「いやいや、だから適当に鼻歌でうたうのよ」って答えたんですけど、そうしたら「へえ~っ、信じられへん!」って言うわけ。「どういうこと?」って訊いたら、普通はコード(和音)から考え出すもんですよって。

コード進行を考えて、それを弾きながら旋律を乗せていく。それが「あたりまえ」の作曲法です、と。なのに、いきなり鼻歌からなんて!みたいなね。

う~ん、玄人筋はそういうもんなのか、って思ってたら、でも別の機会に「いや、私は先生と同じで旋律からです」っていう人にひとりだけ出会ったんです。

なんや、じゃあ俺のやり方でもアリやんって。つまり、それぞれの「あたりまえ」が相対化されている。こういうパターンもあるわけね。

だから仕事の場面でもね、自分の中の「あたりまえ」を信じすぎないほうがいい。自分の判断を絶対視しないで、保留の感覚を残しておいたほうがいい。それがいつどこでひっくり返るか、本当にわからないから。

器用な人ほど陥りがちなこと

僕もよく経験しているんですよ。例えば仕事で一緒に組むことになった人の中にもね、最初は内心「この人、なんかカンが悪いな~」って思う人もいるわけ。一応こっちの話に必死になって食らいついてくれるんやけど、「なんとなくピントがズレてるな」って。でもね、そこから1年や2年経つと、実は非常に優れた人だったってわかってくることがあるの。

それは前回紹介した「類人猿分類」によると、ゴリラさんが多いね。ゴリラさんっていうのは、新しい職場とかに配置転換されたら、はじめの1ヶ月、長かったら3ヶ月くらいは使い物にならない。

その作業をじい~っと見ていることしかできない。なぜなら慎重で臆病なところがあって、失敗を恐れるわけね。ところがある期間、懇切丁寧にゴリラさんに仕事の流れを教えてあげると、瞬く間に業績がアップして、半年くらい経ったらトップグループに立っていることがある。

逆に、すごくカンがよくて、ひと目見て了解してパッパッパッと仕事をこなす人もいるでしょう。こういうタイプはトップスピードがすごい。途中までは成績がぐんぐん伸びる。でも、そっから飽きたりして、結局大成しなくなる人のほうが僕の感覚では多いんです。往々にして、器用な人ほど意外に大成しない。

それを裏返して言うと、器用な人は本当に気を付けなくてはいけないわけ。飽きないように。これは軽い気持ちで言っているわけではなく、かなり深刻な人生の問題なんですよ。

つまりせっかく頭のキレる優秀な人材が、その器用さが裏目に出て、一つのことを継続できない。それで結局40歳になった時に何もモノになっていない、っていうことにもなりかねないんです。「器用貧乏」って言葉がありますが、まさにその成れの果てになってしまう可能性がある。

僕も最初は器用で頭の回転が速い人のほうが、やっぱり話しやすいなと思ったりするんですよ。でも「ツーと言えばカーじゃないな、彼」っていう人のほうが、2年くらい経つとすごい友人になっていたり、僕を支えてくれたり、仕事のパートナーになっていたりすることが相対的には多い。

「あたりまえ」で流さずにいると見えるもの

「あたりまえ」が「あたりまえ」ではなくなる例として、もっとわかりやすい話をしましょうか。いまの風潮を表す一般論として「最近の若い男は、車を買いたいとかあんまり思わなくなった」っていうのがあるじゃないですか。僕が若い頃はカローラから始まって、クラウンあたりに乗れるようになると、大人の男として一人前みたいなステイタスの感覚があったけど。

これは単にジェネレーション・ギャップっていうだけの話ではないんですよ。だっていまは僕でも思いますもん。あの当時、なんでみんなあんなに車を欲しがったんだろう?って。かつての所有の象徴としては、あとマイホームですよね。なんで持ち家が絶対欲しいって、あんなにみんな言ってたんやろう?って。だから時代ごとの人生の目標設定っていうのも、本当に相対的なもんやなって、50歳も過ぎると如実に見えてきちゃいますね。

ちょっと冷静になって考えると、僕なんか一箇所にずっと住むっていうことに、ものすごい不自由さを感じるの。でも僕、30代の頃に、大阪のマンションを購入してるんですよ。それは単になんとなく、30代も後半に差し掛かった社会人の男としてマンションを買わなければいけない、みたいなことだけが動機でした(笑)。その強迫観念みたいなものが、いまから考えると本当に不思議で。

でもそういうことって、細かく見ていくと、日々あるんじゃないかなって思います。つまり、ちょっと冷静に考えたら誰でもわかるようなことを、あるいは自分の本音とか欲望とか正直な気持ちさえも、「あたりまえ」っていう分厚いベールのせいですっかり見えなくなるわけね。

ただ逆に、いろんな物事を「あたりまえ」で流さないようにしていると、そこから普段見えていなかったものが見えてくることがあるんですよ。

宿命的に意識が惹かれてしまうもの

こないだもね、僕の家にずっとインコがいるんですけど、最初1羽しかいなかったのが、ある日突然2羽になってたわけ。どうやらうちの子供が貰い受けてきたんです。でもそれは傷ついたインコで、もう飛べない状態なわけ。

それで1ヶ月、2ヶ月経つと、ふっとね、僕がその新しく加わったインコのほうに気を取られていることに気づいたんです。もちろん2羽とも同じようにかわいいんやけど、飛べないインコを見る時の想いみたいなもの、気の集中の仕方が、どうやらワンレベル違う。

そこで自分は、傷を負ったまま生きているものに肩入れしてしまう気質があるんだっていうことに初めて気づいたんです。それは医者だからとか、倫理観の問題じゃないねん。知らず知らずのうちに、まさにふらふら~っとそちらに惹かれていってしまうわけです。どこか宿命的に。つまりこれが僕の人生、運命を、絶えずコントロールしてきたんじゃないかって。

そりゃあケガしているほうが可哀想だから気になるよね、くらいの「あたりまえ」で流すこともできた、でも掘って考えてみると、存外に深いところまで行き当たるんですよ。

そういう自分の不思議の性質に、50代後半にもなって気づかされた。「あたりまえ」をひっぺがえしたら、無自覚の自分の特殊性、まったく認識していなかった物事の特殊性や意外性があるかもしれない。それに気づいたら、もう「わかり切っている」とは言えないよ、と。

「好きなもんは好き」で終わらせない

そう考えると逆に「あたりまえ」っていうのは、おそらく自分の哲学を始める端緒にもなり得るんですよね。これは、趣味に関してもそう。ほとんどの人は、自分がのめり込んでいる物事や対象に対して、「好きなもんは好き」としか認知していない気がするんです。

「これ私、めっちゃ好きやねん」「なんで好きなの?」「そんなん、理屈抜きや」で済ますことも可能です。ほとんどの人は、そうやって流すわけ。100人中80人は、それで生涯の趣味をまっとうしてしまうわけ。何も悪いことじゃない、それでふつうです。でも本当に面白いのは、ここから議論をこじ開けていくことなんですよね。

「なぜ」という問いかけを果てしなく繰り返していくと、新しいページが開かれていく。同じ「音楽を聴くのが趣味」っていう人でも、綺麗なメロディやフレーズを音源と一緒に口ずさむことを楽しむ人もいれば、楽器の一音一音に反応して体感的な快楽に浸る人もいる。

その両者だと、ずいぶん世界が違いますよね。そして「特に、どの部分が好きなのか」について、こだわって細かく考えていく。そうすると案外ボーカルつまり歌の主旋律よりも、渋いギターのリフ(繰り返し)がグッとくる聞きどころだったことがわかったりする。

何かに惹かれているのかという問題だって、そんなことを考えるまでもない、つまり「あたりまえ」だと思っていがちだけど、実はほとんどの人は誤解していたり無意識だったりするんです。

それがわかると、本当の個性が見えてくる。その人の魅力が倍増したりする。「好きなもんは好き」っていうのは、その人の魅力を活かしていないから僕から言わせると損なんですよ。コミュニケーションのうえでも、ひどくもったいないんです。

自分が好きなものであればあるほどね、「あたりまえ」の奥にあるものを考えてみてほしい。「自分が好きならそれでええねん」でもいいんだけど、自分の「あたりまえ」の中だけで完結するんじゃなくて、それを外に開いてみましょうよ、と。これは僕からのちょっとした提案ですね。

「あたりまえ」からこじ開けた哲学を、定期的に他人と共有する、披露する。ちゃんと話してみる。そういうことで一流のところまでブラッシュアップされていく可能性がある。趣味がそのレベルまで高まれば、人生がもっと豊かになっていくと思うんです。

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